【読書観】「博覧強記」とは?
前回の「古典とは?」 に引き続き読書観の第二段です。
読書観のコーナーでは、読書を通し、気になったキーワードを自分の中で掘り下げて考察してみようというものです。
今回は、「博覧強記」とは?
熟語辞典には、
広く物事を見知って、よく覚えていること。▽「博覧」は広く書物を読んで、多くの物事を知っていること。「強記」は記憶力のすぐれていること。「強」は「彊」とも書く。
と書いてあります。私なりの博覧強記とは、
様々なジャンルの本を読み、知識を蓄え、その知識をいつでもすぐに引き出せる人のことだと思っています。
つまり、博覧強記になるには、
① ジャンルにこだわらず様々な本を読んでいること
② 読んだ本の知識を自分のものにしていること
③ 人との対話の中で、その得た知識を引き出し、関連付け、話題を広げることができること
が必要だと思います。
どこかの本に書いていましたが、最近はめっきり博覧強記の人が減ったと言われています。
明治時代や大正時代には博覧強記の人が多くいたのに。。と
その理由としては、どこかの本が書いていたように
「安心して忘れられる仕組みができてしまった」
からではないでしょうか?
どういうことか?
たとえば、ある知識を得たとします。
それを書き留める紙(記憶媒体)が充分にない時代には、もう自分の脳に焼き付けるしかないので、必死になって覚えようとするはずです。
しかし、今のご時勢、手元に紙と鉛筆がなくても、i-phoneなどですぐ調べることができます。
便利になりすぎたのではないでしょうか?
思い出してください。
20年ほど前は、近所の友達の電話番号はみんな覚えていたのではないでしょうか?
今やどうでしょう自分の携帯電話の番号がわからない人もいるのではないでしょうか?
どこかに行くとき、目的地への電車の乗り換え時間などを必死で記憶したのではないでしょうか?
いまや、直前にi-phoneで乗り換えアプリで確認しているのはでないでしょうか?
あまりに便利になりすぎたので、記憶するという力が衰えている気がします。
私は、博覧強記とまではいかないまでも、読んだ本の知識を記憶に最大限とどめておきたいと思っています。
ブログに読書メモを書くことも安心して忘れられる仕組みと言われればそうな気もして、ジレンマがあるのですが、できる限り、便利なモノに頼らず、記憶できる仕組みを作りたいと思っています。
こんなことを思ったきっかけは、渡辺昇一氏や、松岡正剛氏の本を読んでからではないでしょうか